ペンギン日記(旧akoblog)

identityやprivacyに関心を持つ大学教員のブログ。20歳の頃から「ペンギンみたい」と言われるのでペンギン日記。

戦争中の空は真っ赤だと思っていた

連休中に考えたこと。
生まれて初めて自分のお小遣いで買った本は「ヒロシマの歌」という文庫本だった。小学校の授業で読んだ「ちいちゃんのかげおくり」の空は、赤く燃えていたと想像していた。小学生の頃図書室に通い詰めて原爆の写真集を眺め、白黒でおどろおどろしいキノコ雲の夢を見た。戦争中は、すべてが白黒で、空だけはいつも赤い異様な世界だと思い込んでいた。だから、小学校で「おじいちゃんおばあちゃんに戦争の話を聞いてきなさい」という宿題が出たとき、級友達が話す食べ物がないこと、爆撃にあったこと、招集されたことだけがリアルで、祖母が言っていた「お風呂に入れないのがともかくつらかった」というのはリアルではないと感じてしまっていた。若かった祖母が機銃掃射を生き残ったという話だけがリアルだと感じていた。

90歳に近くなった祖父母が、最近いろいろな話をしてくれるようになった。祖父の一人称は、過去にさかのぼるにつれて「僕」や「俺」になる。士官の仕事というのは技術者であり、研究者であったということに驚いた。海と青い空が祖父の記憶にしっかりと残っていることにも。二十歳前の祖母の写真を見つけたとき、おしゃれが大好きだった10代の少女が真夏に風呂に入れなかったことを悩むということが、ものすごくものすごくリアルな人間らしい気持ちだったということに今更気づいた。個人的な記憶や、戦時中の日常は、もっと「大きな物語」に組み込まれて、要約されて消えてしまうのかもしれない。日常的な感情ならなおさらだ。

こうの史代の「この世界の片隅に」は、まさに戦時中の日常をそのまま描いた漫画だ。平成18年に昭和18年のできごとを書き始め、そのまま18年○月・19年○月‥となぞるように進んでいく。舞台は広島県呉市。広島から嫁いだ「すず」の物語だ。呉と広島という地名から、読者の頭には「大きな物語」である大空襲と原爆がセットされる。20年の春と夏に何が起こるかを、登場人物は知らないが読者は知っているという不均衡な前提で話は進められる。平成20年8月号、つまり昭和20年8月の回には購入をためらいそうになったくらいだ。

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 上 (アクションコミックス)

が、この漫画はほのぼのと明るいのだ。少ない食料でのやりくりがスケッチブックでの描写で描かれたり、ちょっとしたオトボケはサザエさんを思わせる明るさだ。着物をばらしてもんぺにする工程も、野草を使った料理も、それが当たり前のように描かれていて悲壮感がない。

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

じわりと影を落としていく戦争。すずが持つ悩みは、戦争だけでなく、若い女性らしく新妻らしいものでもあった。私の祖母がふと重なった。(ちなみに祖母とすずは同い年)。よく読むといわゆる「戦争中の話」として聞く話ばかりなのだが、それを未来の人間が俯瞰するのではなくて、当時の生活者がどう見ていたかという目で語られている。

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

原爆の描写は下巻。平成20年8月に掲載された。この時代の通信網を考えると、おそろしくのんびり(に見える)時間の流れが、却ってリアルに感じられる。今の私たちは、写真や「大きな物語」で歴史を俯瞰できるけれど、そのときその場所ではそうではなかったということに改めて気づく。

この漫画の参考文献にも挙げられていた以下の本もお薦め。以前購入してから何度も読み返した。婦人雑誌に反映される食料事情だが、レシピの分量が「g単位」→「目分量」→「手に入るものなら何でも」と変わっていくところに、日常と戦況の切迫度がリアルに表われている。