9月29日の日本経済新聞・夕刊 5面「やりくり一家のマネーダイニング」にて「終活の基礎(下)デジタル遺品」の記事内で、コメントが紹介されました。顔写真つきでした…。
デジタル遺品の中でも、特にSNSは注意が必要だということをお話しました。遺族がログインしたら、ダイレクトメッセージのやりとりや、自分が閲覧できる「生きている人の」鍵アカウントの中身も見えてしまう可能性があります。
なお、この記事掲載、SNSのダイレクトメッセージで大学時代の友人が教えてくれました!
接種後2時間で37度程度の微熱、と思いきや夜は38度まで発熱。チリチリするような熱。1回目は熱が出ないと思い込んで油断していた。まだ手術後10日程度、やたらとおなかがすいた。腕の痛みも早く消えたし、倦怠感といってもたいしたことなかった。
mRNAワクチンを2度接種することができて、もう感謝しかない。横浜市は個別接種が半分を占めているので、かかりつけ医があると取りやすいのかもしれない。
どこに住んでいるか、どこに勤めているかでまったく状況が違うものなのだな、とワクチン接種に関しては強く感じた。グループ3(基礎疾患)の優先順位はなんだったのか、と思ったこともあった。早く接種したい、と思いつつ、自分が打ってよいのだろうかとも葛藤した。自治体の順番通りに打ったので、これでよかったと思いたいが・・。
Twitterでは批判もあったけれど、小野先生の記事は、考えながら何度も読み直してしまった。
早く、希望する人が皆打てますように。
先月下旬、とある良性疾患のために手術を受けた。このブログを書いている時点で、神奈川県では延期すべき手術に入っており、ギリギリの時期だったと思う。術後、半月以上経ったので少し記録を残しておく。
手術が決まったのは5月の時点。それまで「ワクチン接種できてからがいいです」と申し上げてたのだが、「秋になるかもしれないし、その頃コロナがどうなってるか分からない。受けられるときに早く手術した方がよい」と言われ、授業への影響を考えて7月に設定した。その頃は、横浜市で高齢者のワクチン接種予約に四苦八苦してた頃でもあったし自分の接種はずっと先だろうとは思っていた。
6月中に、術前術後のワクチン接種について聞いたところ、「術前ならば2回接種後2週間空ける。術後なら2週間〜1ヶ月空ける」という説明だった。なお、接種については、7月には「術後1週間でOK」に変更になった。
入院の準備は、出張準備に似ていた。
2020年以降、出張ゼロだったので自分だけが外泊するのが久しぶりすぎた。術後の経過によって何があれば便利かを検索しまくったが、やや古い経験談のブログは見つかるものの、直近のものは意外に見つからない。みんなブログ書かなくなっちゃったし!(自分もだが…)
数少ないブログから、同じ手術を受ける人を探し出して呼んだり、Facebookの公開投稿で検索したり、Twitterで検索したり。
ついには、Twitterで裏アカウントを作成して*1、キーワードにひっかかった人を片っ端からフォローした。面白いことに、入院・手術のためのアカウントを作っている人は少なくなく、普段のアカウントとは切り離し、そのトピックだけをツイートされていた。(自分もだが…)やがて、同じ時期や、なんと同じ日に手術を受ける人とつながり、入院準備に向けて毎日お互いにリプライを飛ばし合う日々が続いた。持ち物についても、ちょっとした相談やモノの紹介ができて助かった。
ここからは、同じような状況で検索した誰かに届くように。
どうにか暮らすので精一杯で終わってしまった2020年。
・研究はやっと、どうにか、細々と。それでも続けることを優先しつつ。
・オンライン授業。授業形態は誰もがどのような環境でも受けられるようにし、内容はコロナや時事問題を取り入れた。インフォデミックのワクチンになりますように。
・こんな年に教務委員。いろいろなフローを見直せた契機にもなった。
・髪がだいぶ伸びた。体重は夏まではキープしてたけれど、秋から晩酌するようになってやや増加。
・筋肉体操DVDやSwitchのFitBoxingで運動継続。肩こりは相当軽減した。
・子どもがいるから大変なことも多かったが、子どもに気づかされたことも多かった。
・2月以降、同居家族以外と一切食事を一緒にしていない。
・リフレッシュすることがいかに大事か、不要不急と言われていた楽しみは生きる上では必要なものだと痛感した。1回のみだったが旅行は行けてよかった。
・ちょこちょこゲームやるようになった。スマホゲームや、今更ながらAoE、Switchで塊魂等・・
研究ミーティング数回、センター試験監督など。朝日新聞にデジタル遺品の取材を受けた記事が載った。長男がインフルエンザで発熱(予防接種済み)日の夜、デジタル・フォレンジック研究会。「子どもがインフルエンザになったので・・」とマスクをしたまま講演をした。情報処理学会論文誌(ジャーナル)の採録決定で一安心。ラトビア開催の国際会議もaccepted。
上の子のインフルエンザ罹患と、学級閉鎖がほぼ重なった。発熱と同時に部屋を分けていたので、他の家族は罹患せず。
2月上旬は、ラトビア行きはフィンエアーか、LOTポーランド航空か、なんて迷っていた。乗り継ぎ行けそうだしとLOTを予約。大学ではポスター形式の卒論発表会を初開催。AI美空ひばりに関するワークショップで東京大学へ行ったのが、対面で参加する「密」な研究ミーティングとして最初で最後になった。
2月下旬時点では、国際会議のキャンセル連絡はなく、学内でも「不要不急の海外渡航はできるだけ避けるように」だったでの悩んでた。一方、情報処理学会の全国大会は、現地開催中止の決定。卒業式も中止。次々と予定がキャンセルになり、さらには青野慶久さんの夫婦別姓裁判は高裁で敗訴となった。ショック。
紙製品が入手しづらくなっていった。Amazon定期便で買っていたマスクは、とうに届かなくなっていた。毎月買っていたために、少しの予備はあったものの・・。
一斉休校、父母が働いている低学年の子は、小学校で「緊急預かり」として受け入れてくれることになった。これが思いのほかよい時間だったそうで、好きな本を読めたり、持ち込んだ教材をやっていると先生が教えてくれたり。学校のPCも使わせてくれたのでViscuitでプログラミングしてクラウドにセーブし、自宅で続きをやることも。学童は子どもがどうしても多くなるので、小学校の預かり時間内でどうにか仕事を夫婦で調整。この頃はまだ、会議は対面だった。
ラトビア出張は早々にキャンセル。5月予定だったカンファレンスも延期に。自分も科研の研究会は、ゲスト講師に古田雄介さんをお迎えし、関内メディアセンターを使いつつ初のZoom開催。
ソレイユの丘に子ども達を連れていった。この頃はまだ、マスク必須ではなかった。
卒業式が中止になったため、教室で卒業証書授与。
3月の三連休で少し「もう大丈夫?」という雰囲気はあったものの、すぐに緊急事態か??という呼びかけで、スーパーの食品も品切れが目立った。
エビカニクスと筋肉体操をして運動不足対策。筋肉体操は全身バキバキに筋肉痛になった。通っていたジムは退会した。
4月
緊急事態宣言。小学校は休校。保育園も強い登園自粛。在宅での仕事は時間が足りないが、睡眠削ると体調崩すので本当にキツイ。Zoomの鼎談に1件応じた。
そんな中、情報処理学会の論文誌(ジャーナル)と学会誌に同時掲載。嬉しかった。
http://id.nii.ac.jp/1001/00204
253/
死後のデータを残すか消すか?:追悼とプライバシに関する一考察
折田 明子, 湯淺 墾道
情報処理学会論文誌, Vol.61, No.4, pp.1023-1029 (2020-04-15)
http://id.nii.ac.jp/1001/00204
296/
亡くなった人とのVR「再会」をめぐって
折田 明子
情報処理, Vol.61, No.5, pp.434-436 (2020-04-15)
この頃、新聞の折り込み広告が殆どなくなった。外に出ても人は少なく、店も開いていない。日々公園だけはでかけたが、休日!という感じもせず、気持ちは落ち込む。小2の息子が
「おれはサンタにコロナのワクチンをお願いしたんだ。絶対来るよ」
と言っていたのがこの頃。そんな、1年も経たずに出来るわけないよと思いつつ
「そうだね、そうなるといいね」
と答えていた。
四苦八苦しながらSITE登壇の予稿を書く。時間が捻出できない上に、疲れ果てて考えるということが絶望的にできなくて苦しい。模擬授業撮影で出講。それ以外はほぼ自宅で仕事。オリエンテーション期間中の対応しつつ子ども達の対応をしつつ。プロジェクタにPCをつなぎ、Amazonプライムの映画を再生して「おうち映画館」をたまにやって、親の仕事時間を確保。
緊急事態宣言解除のタイミングで、社会活動再開直前ならばリスク低いだろうと、95歳の祖母と両親が暮らす実家へ。庭先で少しだけ会ってきた。
小学校再開、保育園の自粛も緩和されて一安心。習い事も再開され、マスク着用や検温、消毒といったルールが掲示された。八景島シーパラダイスが空いているタイミングで子ども達を連れていった。本当に人がいない。
この頃はSITE-EIP研究会でパネル登壇(Zoom)。オンライン授業は、オンデマンド型から一部Zoomを取り入れ始めた。受講側の環境は様々。オンラインでずっと準備していた、合同ゼミでもあるNIPCをZoomで開催。折田ゼミは4年生が参加。
Zoomをヘッドフォンで使っていたら閉塞感が苦しくなり、スピーカーとマイク外付けにし環境を整えた。
COCOAをインストール。
中央大学ビジネススクールの非常勤授業開始。Zoomで顔出し必須。本務先の授業もZoomを基本としてそれを録画したものをオンデマンド受講できるようにした。延期していた運転免許の更新を済ませた。仕事量はそこそこあるけれど、小学校&保育園があるとその時間は仕事だけに集中できて本当に助かった。それでも、預かり時間はコロナ以前よりもずっと短くしていたが。
4月に鼎談した記事掲載。
オープンキャンパスはオンラインに。授業は続いているし、子ども達を遠出させるのも難しい。「おうち縁日」をしたり、ベランダでプールをしたり。猛暑と強い日差しの中、紫外線対策を普段以上に徹底。うっかり熱出したら出かけることもできない・・。
そして、Switchの当選を譲っていただいてゲット!さっそくFit Boxingをはじめて汗だくに。ダイエット効果は不明だが、肩こりは劇的に解消。頭痛も減った。
情報化社会のニューノーマル:2.教育のオンライン化 ~実施してみて分かったこと~情報処理, Vol.61, No.8, pp.933-939 (2020-08-15)
ようやく科研の研究会開催。ゲスト講師は岡本正先生。 ここから、故人の情報を「残す」ことについて考え始める。そしてあっというまに秋学期。混雑と三密と紫外線と熱中症を避けるのが難しくて、UVセンサを購入。
自家用車で県内に一泊旅行。これが2020年唯一の宿泊旅行。
7月に予定されていた筑波大学の授業をZoomで。マンガ討議もZoomでなんとか。科研研究会では岡本真さんがゲスト。アーカイブの観点から故人の情報について考えた。小学校の運動会は、学年別に1時間のみの参観。それでも、できてよかった。
かかりつけ医で家族全員インフルエンザ接種。早めの予約でどうにかできた。スポンジボブゲームにハマり始める。
二酸化炭素モニターを購入。いろいろ測ってると、換気されている・されていない場所がみえてくる。UVセンサー、二酸化炭素モニター、そしてスマホにCOCOAと重装備で出かけるようになった・・。スギ花粉のアレルギーで2月〜3月はひどかったので、舌下免疫療法を開始。
学期中の対面授業を1回やったのも11月。二酸化炭素モニター持ち込み、換気しっかりやって(寒い)、さらにZoomと同時配信しつつ録画をオンデマンド提供。黒い画面に話し続けるより、対面で人に向かって話す方がずっと話しやすいのは確かなんだ・・。
Zoomでいろいろなシンポジウムを聴講。出かけずに聞けるのは、時間的には大変有り難い。
セミナーを聴講したり、情報通信学会で討論者をしたり。少しずつ研究活動を継続。冬のNIPCに2年・3年ゼミのチームが参加。アンケート調査や分析など、オンラインでよくがんばった。
横須賀市教育委員会主催の講演会(対面!)で講演したり、Zoomでの講演の機会をいただいたり。最後は研究会発表の申込みをして、どうにかアウトプットへの道筋をつけた。
ワクチンのニュースに、息子が「ほら、おれが頼んだ通りでしょ」と。
来年が、今年よりも希望の見える一年になりますように。
書き残して置こうと思いながらも、あっという間に時間が経って2020年が終わりそうになっている。忘れる前に4月〜5月の記録をしておこう。
4月1日。年度は替わったものの、いつ緊急事態宣言が出るのかどうかという雰囲気で、4月に再開すると言っていた横浜市の小学校も、再開延期し始業式の後に20日まで休校というアナウンスが4月3日には出た。小2の長男は、とても怒っていた。「ただ学校に行きたいのに、いきなり休みになってずっとなのか!」と。小学校での緊急受け入れは継続とのことで、週2〜3日は学校に行ってもらうことにした。
8日からはネットで小学校の授業動画配信もあった。一方的に配信されるだけだが、子どもは動画に「おはようございます!」と話しかけたりしていた。双方向ならよいのにと思いつつ・・。
マスクもアルコールもどこにも売っていない。子ども達から「マスクほしい」と言われて、ミシンを引っ張り出して、YouTubeでやり方の動画を検索し、ミニタオルやハンカチでマスクを縫った。この頃、ゴム紐も手に入らず、ストッキングを切ってギュッと引っ張ったものを代用にした。耳が痛くならないらしい。
先が見えず気持ちは落ち込むが、桜は満開。4日(土)は川沿いに桜を見に出かけてきた。SNSを見過ぎると自分のメンタルへの影響がよくないと判断し、スマホでの閲覧は30分の制限をかけた。
4月7日(火)、緊急事態宣言。翌日から横浜駅西口・東口の地下街はクローズと書かれていて、なぜか駆け込みでTopsのケーキを買ってしまった。翌8日(水)は保育園に預けて出勤したが、電車はガラガラ。この時点では横浜市では、保育園にも登園自粛の話は出ていなかったが、翌9日からは「保護者が在宅勤務の方」は保育園の利用を控えるようにと貼り紙が出た。この時点では、週2〜4日で登園予定を申請していた。在宅勤務ではあったものの、夫婦交代で3人見ながらの仕事には限界があった。市は原則開園としていたものの、横浜私立保育園園長会からも強い登園自粛のメッセージが出されて、登園はかなり難しくなった。
年度替わりで教務委員になり、しかも急遽オンラインで授業を進めることに加えて、新入生のケアをどうするか。公式LINEの設置や、ガイダンス動画の制作など仕事は山積みだった。新入生の履修パターンをいくつも想定して動画を作る。子どもが寝静まった夜にやるしかなかった。ガイダンス動画を完成させたのは、4月21日だったようだ。
4月中旬、飲食店のテイクアウトがどんどん増えてきたし、昼は外を歩いて買いに行くようになった。横浜駅は人が殆どいなかった。近隣のスーパーはチラシを廃止。麺類は米は「一家族○個まで」と制限つき。まいばすけっとはどこに行っても、紙類が不足していた。大変有り難いことにマスクが手に入ったので、保育園にいくらか寄付をした。保育士の皆さんは、自分で調達するしかなかったとのこと。自分は、サージカルマスクを一度使ったら軽く洗って干して、数回使っていた。布マスクは子どもが使っていた。とにかくマスクはどこにも売っていなかった。
4月22日、横浜市から強い登園自粛が要請された。まったく登園不可となると、本当に仕事もままならない。子どもが家にいる間は、午前中は少し勉強などをやらせ、昼前に空いた公園に連れて行き、戻って昼食、午後は動画やゲームなど好きに過ごさせつつ親は仕事という形だった。切羽詰まって保育園に相談したところ、週2日は登園OKとしてくれ、本当に本当に救われた。福祉機関としての有り難さが身にしみた。親子が離れる時間を持てたことが、なにより大きかった。
登園している子は、普段の1/3程度。皆が少しずつなんとか支えてもらっていたのだろう。それでも、この時期は仕事もきつくて休職したいと思い、夜仕事をしていると涙がボロボロとこぼれてきていた。
これを踏まえ、登園自粛をお願いする期間について、保育の対象とする方の保護者の職業 要件について、具体的にお示しいたします。なお、お示しする職業に当てはまらない場合な どで、真に保育が必要である場合については、個別に各園にご相談ください。
園児の両親がともに下記職業要件に該当するなど、ご家庭での保育が困難な状況にある場合。
※上記の職業要件に該当されている方についても、どうしても必要な日のみや時間短縮など 必要最小限のご利用にしていただきますようお願いします。
一方で、子どもに気づかされることも多かった。4月下旬からは、上の子の習い事がオンラインになった。授業のやり方は大いに参考になる。また、ニュースを見ていると、二番目の子が「新型コロナで何人治ったの?何人死んじゃったの?あと何人治って何人死んだら、コロナ終わるの?」と聞いてくる。そうか、治った人の数も重要だと、自分が冷静にニュースを聞けてなかったことにも気づかされた。
スーパーの買い物は数日おきに私1人で行っていた。パルシステムもおうちコープも、個数制限がかかったり欠品が続いたりしたので、できるだけ調達できるものは自分で調達した。
緊急事態宣言中に誕生日を迎えた。子どもがケーキのデコレーションをしてくれ、夕食は普段は滅多に行けないイタリアンのテイクアウトをいただいた。
連休と言っても日々変わらず。空いた時間に公園に子どもを連れて行き、身体を動かす時間は必ず取っていた。都内では公園が閉鎖されたというし、一部では公園の遊具もリスクあるから使わないように!と情報が回っていたけれど、幼児たちを何ヶ月も家に閉じ込めておいたら心身壊す可能性の方が高い。人から人にうつる感染症ならば、人がいない時間の公園に行こうと判断して、試行錯誤しながらも空いた時間帯の公園巡りをしていた。公園には液体石鹸の小さなボトルを持っていって、手洗いは欠かさなかった。
この頃から、次男が長男のオンライン講座を一緒に受け始め、小1の算数を勝手にやり始めたりしていた。
連休明けからは、大学はオリエンテーション期間。個別対応に追われていた。公式LINEをはじめ、問い合わせの対応をし続けていると仕事に終わりはない。対応するビジネスアワーを決めて、それ以降は翌日に回すようにした。加えて自分の授業の準備もある・・。保育園と小学校の預かりは週2〜3日。緊急事態宣言の延長に伴い、どうしても仕事の事情なら預かりますというトーンになり助かった。ただ、紫外線強くなり、私自身が37.4の発熱。猛烈なだるさがあった日があり、慌てて別室に引きこもった。そのまま眠り続けたらあっさり回復した。この頃、SITEの登壇のための予稿をなんとか書いていたが、とにかく頭が働かず苦戦した上に、腱鞘炎で激痛にボルタレンローションを塗りまくっていた。
5月半ば、マスクが市場に出始めた。ドンキホーテの前を通ったら、不織布マスク7枚入りで698円。
さらにはオンラインのオープンキャンパスの模擬授業録画があり、その資料も準備して出勤。髪のカットにも行けず、顔は疲れているが、それでも目の前に受講生を想定してライブで話すと自分も元気が出てくる。
5月22日(金)、本来は5月25日(月)発で予約していたSASのHND-CPHの往復ともに欠航確定したので、返金手続き。予約したのは2月、この頃は「出張最終日は小学校の運動会と重なるなー、朝羽田着なら大丈夫かなー」なんて思っていた。もはや別世界の話。また、その後も本当に欧州はクリーンで安全な場所だと思い込んでいたので、日本からはNGと言われるのかな、とも思った時期もあった。
5月下旬はオンライン授業開始。しばらくは短い動画とPDFのみとして、徐々にZoomを部分的に導入することにした。通信量の逼迫が言われていて、「データダイエット」を心がけたのと、受講生の環境がわからなかったこともある。この頃になってようやく、学期はじめのイレギュラー対応の諸々が落ち着いていた。久々にAoEをやる余裕も出来てた。そして何より、
5月22日時点で神奈川県においては、早ければ5月25日をもって、指定が解除される可能性があるため、今後の保育所等の利用についての考え方をお示しします。
と、保育園についての文書が掲げられたことは区切りにもなっていた。ただ、一方で気持ちは沈んだままで、当時自分のFBにはこう書いていた。
緊急事態宣言が解除されて、子どもの小学校再開に向けたお便りがPDFで届き、保育園の登園予定を書く表も届き、次のフェーズなんだなと思うんだけど、なんか何もする気が起きなくてとにかく悲しい。よくわからん。何かが楽しみ、ということが感じられない。
緊急事態宣言が解除されてすぐ、実家に顔を見せにいってきた。両親と90代の祖母。いずれもハイリスク。解除後すぐならば、まだ人の往来は少ないしリスクも低いだろうと判断。屋外で会っただけだったけれど、貴重なタイミングだった。
スペイン風邪の時期に個人が遺した日記や記録が、今読み返されている。現在の新型コロナウイルスに関して、市井の人間は何を思い、何に苦しみ、どう生活していたのかはどんな形で残されるのか。相当数の人々が、日々の思いをSNSで発信し続けているものの、それこそ死後まで残るとも限らない。でも、残しておくべきと思う。
40代、大学教員(教務および広報担当)、未就学児2人・小学生1人の母親という自分が、どう過ごしてきたか、いったん2月〜3月を振り返ってまとめてみた。
仕事は通常通り。3月下旬のラトビア出張のために、ヘルシンキ経由のYとワルシャワ経由のPYでは後者の方が安いけれど、MCT気になるなーどうしようかなーとFBに書き込んだりしていた。
小学生の息子が、クラスで流行していたインフルエンザBに罹患。予防接種してあったけれど、連日40度の発熱。インフルエンザ脳症が怖くて目が離せない。兄弟とは家庭内で隔離した結果、他の感染者は出ず。じきに学級閉鎖になった。学童も行けないし調整しなきゃ、というやりとりがママ友LINEで飛び交う。仕事は、子どものインフルエンザ対応で調整しつつもいつも通り。
1月にはAmazon定期オトク便で届いていたマスクは、2月は品切れで届かなかった。花粉症の時期は常に多めにストックしていたので、この時点で60枚入りが5箱はあったので、まあどうにかなるかなと思っていた。
仕事は通常通り。
PTAの集まりにも参加した。横浜に暮らしているので、ダイヤモンドプリンセス号のことが気になるが、生活に変化は無し。横浜そごうで開催された、人間共生学部の共生デザイン展に出かけて、子ども達もワークショップに参加。デパートに家族で行くことも通常通りだった。
花粉症がつらいと思い始めていた。
仕事は通常通り。都内での研究会にも参加。まだ至近距離でディスカッション。花粉症なので私はマスクをしていたが、マスクをしていない人も多かった。
3月下旬にラトビアで開催される予定だった国際会議からは、「レジストレーションしてね」と連絡が来るし、欧州は通常通りと思っていた。「不要不急の海外渡航は避けるべし」と職場で通達があったが、国際会議の出張はどうなるんだろう?と迷っていた。その時期は、欧州がCOVID-19汚染国としての日本からの入国を許すかどうかだよね、という論調。一方で、金沢大学で開催予定だった、情報処理学会の全国大会は、現地開催中止とのお知らせ。
ダイヤモンドプリンセス号から下船始まり、横浜駅で解散とのことで、周囲も少し気にし始める。みなとみらいで乗ったタクシーでは、「乗降の度にアルコールで消毒している」と言われた。ブッフェ形式の会食も普通に開催されていたし、参加もした。
仕事のリスケジュールが入り始める。RISTEX関連で、中学校での実証をお願いしていたものが全て直前でキャンセルになった。外部者の訪問を受けられない、という理由からあっという間に全国一斉休校に飲み込まれた。本学でも卒業式の中止が決定された。
一方で、25日にはラトビアで3月に開催される国際会議のプログラムが送られてきた。
この週の前半にあった、小学校の授業参観と懇談会は予定通りだった。昇降口にアルコール消毒液が置かれ、マスクで参加した。一方で、北海道では一斉休校が決定。と思ったら、いきなりの全国一斉休校ニュースを夕刻TVで見て、文字通り立ち尽くした。保育園は開くとのことで、いったんは安堵したものの、あまりに乱暴な決定プロセス、そして社会を支える人達は親でもあるということが無視されているという感覚に、むちゃくちゃ怒る。しかも、学校より学童の方が危ないじゃないかとか。当時のFBにはこんなことを書いていた。
そもそも休校は感染防止に役立つのか。
小学生ならば学童保育を開けるというが、学童のスペースは学校ほど大きくなく、子どもたちが詰め込まれる自体になれば飛沫感染、接触感染のリスクは高まるのでは。祖父母に預けるなら、重篤化しやすい高齢者のリスクは?さらには、職場に低学年の子を連れて行くとなれば、本末転倒だ。休校の決定が、デメリットやリスクを鑑みても有効だという証拠の上に成り立ってるのかどうか。学校以外の場所に行くだけではないのか。親は相変わらず通勤電車での感染リスクにさらされたままで。
なお、この時期、うちにあるのを忘れて1パックずつ余計にトイレットペーパーとティッシュを買ってしまっていた。結果的にこの行動に救われた。
入試などの用務は通常通り。出張が無くなった分、原稿を書く時間が取れた。
3月1日の時点でラトビアは日本からの入国後は健康観察をすること、という制限が発表された。子ども達からも「お母さん、ヨーロッパ行ったらコロナ!っていじめられるよ」と言われてしまった。ニュースでそのような映像があったからだろう。国際会議の出張を取りやめることにする。航空券以外の旅費とレジストレーション費用分を繰越申請(3月6日まで、コロナ理由の繰越〆切が延長された)。会議事務局にキャンセルの連絡をするが、返事がなかった。LOTポーランド航空からは、いまの状況では入国禁止ではないため、キャンセルしても払い戻しは無いと言われた。
2月28日から,日本,中国,韓国,シンガポール,イラン,イタリアのロンバルディア州,ヴェネト州,エミリア=ロマーニャ州及びピエモンテ州からの渡航者に,14日間自身において健康状態の観察(1日2回の検温を推奨)を求める。その期間中に,感染が疑われる症状(高熱,咳,喉の痛み,呼吸困難等)が発生した場合,可能であれば家族や他の人との接触を避け,速やかに113(救急番号)に連絡し,症状,症状の発生している期間やコロナウイルス感染地域への渡航歴を伝えることを求める。その後,病院から医療従事者が派遣され検査が行われ,検査結果は24時間以内に本人に通知される(注:症状の無い方に対し,当局等への健康状態の報告を義務づけたり,行動の制限を課すものではない。)。
(3月4日時点の安全情報より:ラトビア)
一方、5月にデンマークで開催予定の国際会議については、英国の参加者から「大学が出張許可を出さない」という連絡があり、他の参加者たちもそれに続いている。ん?もしかして欧州も危ない?とうっすら思い始める。
店頭からトイレットペーパー、ティッシュ類が姿を消す。金沢八景駅ビルがオープンしたが、京急ストアには在庫なしの貼り紙。
休校1週目。低学年は「緊急受け入れ」として、就労などの理由で子どもを教室に受け入れてくれることになった。最初は遠慮して行かせず仕事場に連れて行ったりしたが、明らかに子どもが飽きている。おそるおそる行かせたら、友達とは会えるし、好きな勉強をしても叱られないしで大いにリフレッシュしていた。割り切って、仕事のときは利用することにした。保育園は通常通りだが、延長保育は控えて欲しいと呼びかけがあった。
横浜市教育委員会からは、屋外での運動を推奨するお知らせも届く。人との接触が少なければ大丈夫と示されていたので、人が少ない公園へは連れて行くことに。
スポーツジムを休会した。代わりに、自宅で子ども達と一緒に「筋肉体操」を始めた。筋肉痛バキバキで翌日歩くのに難儀した。
年度末の予算執行や精算、そして在学生や新入生のガイダンス検討などの仕事が山積み。自分の研究に関しては、3月下旬に開催予定だった研究会を、遠隔開催とすることを決めた。
3月19日開催予定だった、ラトビアの国際会議も延期がアナウンスされた。LOTポーランド航空は、週末になってようやく、延期・バウチャー・返金の選択ができるようになったが、ラトビア行きはまだその対象外。ぎりぎりまで待つことにした。
また、5月26日開催予定だったデンマークでの国際会議は、3月11日に1年延期のお知らせが届いた。この時点では、5月下旬には日本では収束してるかな、欧州はその頃まだ流行開始くらいかな、なんて思っていた。
一方で、ボストンで2月26日〜27日に開催されたカンファレンスで、175人中70人がCOVID-19に感染したというニュースを読み、アメリカにも既に広がっているのでは・・と思い始めた。
在宅で仕事をすることが増えたが、ランチはむしろ近所に出かけるようにしていた。どうしても行き詰まると、読むべき資料を持って近所のカフェに行ってみたり。徒歩圏に、個人経営のカフェをいくつも見つけた。買い物時にはローリングストックを意識して回していた。もともと、子ども達が病気を繰り返していたときのオペレーションに近い。
横浜市教育委員会からは、24日まで休校延長し、25日に終了式はやるとのこと。子どもの習い事は、ほぼ休みになったが一つだけは教室で継続。学童は休ませて学校の預かりだけを利用した。保育園は散歩が増えた。在宅での仕事が増えてきたので、登園時刻を9時にして、迎えも17時として時間を短縮した。結果、仕事は夜にやるように・・
週末に、横須賀のソレイユの丘に子ども達を連れて行った。広い公園で野菜を収穫。複合遊具には、午後から子ども達が山のように集まってきたので退散。さすがにオープンエアでも、あそこまで密集するのは、コロナに限らず何かうつしあっても怖いな、という感覚だった。一方で、休校でそれだけ子ども達が押さえつけられていて、親たちは必死で手足を伸ばせる場所を探して連れて行くんだよな、とも痛感した。
入学式中止、オリエンテーションは実施を予定するが変更の可能性ありと、大学からアナウンス。
FBに「大学での遠隔の学びを続けるぞ」というグループを作った。学内・学外でどのように授業や学生対応を組み立てていくかの情報収集に本腰を入れ始める。
週明けには、LOTポーランド航空運休のお知らせが出たため、あっさり全額返金。3月12日時点ではNGだったのが、14日時点で一気に運休になった。欧州の急激な変化を感じた。
週末の三連休前に、休校の継続はしないというニュースでふっと気が楽になったが、一方で大学の授業が再開したら自分の身は守れるだろうか、親が罹患したら子ども達はどうしようかとか心配事が具体的になってきた。三連休は暖かかったし、これは人が集まるだろうと予想して、時間をずらして近所の公園に出かけるようにした。
第4週
卒業式が中止になったので、教室で学位記交付。卒業生たちと最後に会うことができた。この時期に送り出す側としては、とにかく元気でいてくれと思うばかりだった。
刻々と変わるスケジュール対応の仕事に追われ始める。ゼミの学生たちに簡易アンケートをとって通信環境や学習についての感触を得る。
科研の研究会を、関内メディアセンターで開催。招待講演者の古田雄介さんと私が会議室に対角に座り、他の参加者はZoom経由。
大学から、3月27日(金)に、春学期の授業開始は5月14日(木)と告知あり。
週の前半は、なんとなく緩んだ空気はあったと思う。学童でも、少し遠いところの大きな公園に出かけていった。なんとなく、まだまだ長いはずだという感覚があって、家から出られなくなったときの食料備蓄を考えて、常温で保存できる豆乳やロングライフ牛乳をまとめて購入。その後、3月の27日(金)〜からの引き締めの呼びかけ。週末は予報通り雪が降って外気温は2度だった。スーパーが混雑する直前に、どうにか必要なものは買い込んであった。翌週からの学童での外出は取りやめになった。この頃、「今の東京は2週間前のNY」という記事を目にするようになった。いろいろと考えてしまい、夜うまく眠れなくなった。銀行に行くと「離れて並んでください!」と声をかけられた。
横浜市内の小学校は、3月30日の時点では、半日程度の短縮授業で再開予定と言われていた。長期化するなら、せめて行けるときに行ければと思っていたので、その意思決定は有り難いと思っていたが、Twitterを眺めていると相当の反対もあったようだ。
あっという間に過ぎた一年で、執筆すべき原稿を仕上げられなかった後悔が残っている。一方で、それぞれ別々に進めていた研究テーマが、自分の中で納得できる一つの流れれとして感じられたのは大きかった。子どもから青少年、そして死後に至るまで、あらゆるデータに囲まれた世界でどうやって自分のアイデンティティを生きていくか、という話になるのだと思う。
なお、今年はメディアに少しずつ取り上げていただいた。TV(読売TV)ラジオ(NHK)、新聞(日本経済新聞)、雑誌(FLASH、サイゾー、ダイヤモンドオンライン)等。一方で、論文はrejectを食らいまくったのもあり、一本期待を持てるのがあるのみ。なかなか試練。
1月:予防接種をしていたのにインフルエンザA罹患。熱はそれほど上がらずに済んだが頭痛辛し。詳細なシラバス執筆の作業に追われつつ、さらに小学校入学説明会の書類の多さに頭がクラクラした。
2月:なぜか記憶がない。論文を書いていた気がする。
3月:シンガポールへ出張(RISTEX関連)*1Better Internet はフェイクニュースの話題が多めだったが、基本的に子ども達が自分でネットを使いこなしていくことを前提にしているのは日本と大きく違っていた。サイバーセキュリティも「国防」としての位置づけ。直後に情報処理学会全国大会@福岡大学で毎年恒例のパネリスト。上の子の卒園式では涙。6年間の保育園生活が終わった。春休みは北関東〜福島に家族旅行。応援していた、青野慶久さんの夫婦別姓訴訟が東京地裁で棄却に。傍聴に行っていたが、呆然とした。
4月:科研費(基盤B)採択!テーマは「情報ネットワーク社会における『死』の再定義」。これは本当に嬉しかった。4月1日は末っ子が発熱で一緒に家にいたのだけど、Webで採択結果を見て「やったー!」と喜んだら、一緒に「やったー」と言ってくれた(笑)。プライベートでは、上の子の小学校入学。そもそも4月頭から学童通いで弁当作りも始まったし、しばらくは投稿も親が付き添い。なお、下の子達を保育園に送る途中で自転車に引っかけられて転倒。暫く腕が上がらない状況で困った。自転車でも交通事故なのですぐ警察に行くべし。
5月:平成から令和へ。連休中に北関東へ家族旅行。Facebook Global Safety and Well-Being Summitに参加させていただく。青少年のsafety関連がメインの目的だったが、自殺や遺族のコミュニティの話が印象に残った。
about.fb.comまた、Summitが終わってから、911メモリアルミュージアムへ駆け込んだ。これは衝撃的すぎて、しばらく言葉も無かった。故人の名前には印がつけられており(生存者と区別している)、亡くなる直前の声を聞くことも出来た。死後のデータを残すことの意味も同時に考えさせられた。
下旬には、急いでパスポート更新。また、「ウエークアップ!ぷらす」でデジタル遺品について取材VTRが取り上げられた。
6月:本学の創造祭・スポーツフェスティバルに初参加。EIP/SITE合同研究会 のローカルアレンジ@KGU関内メディアセンター。滞りなく終わって一安心。情報法制シンポジウムで信用スコアのパネルに登壇の機会をいただく。この機会は後々とても役だった。中旬にはマレーシア・クアラルンプールにてGWS2019- 6th International Conference on Gender and Women's Studies 2019に参加し、日本での複数の姓を持つ家族についての意識調査の結果を発表。クアラルンプールでは、キラキラのビルと小汚い建物の対比に驚かされた。下旬には、情報通信学会で討論者@白鴎大学。
7月:地域の夏祭りに子ども会で出店する係になっていたので、その準備でバタバタ。小学校の夏休みも始まり、猛暑に耐えうる弁当作り(たまには学童で購入)が始まる。夏休みは隙を見て家族旅行。またも北関東。
8月:東京大学の渡邉研究室の「記憶の解凍」プロジェクトに大きく衝撃を受け、その勢いで祖父母の写真のカラー化を進めまくった結果、左手に力が入らなくなりVDT作業を禁じられてしまう。下旬には、情報社会学会で司会を務める。また、理事を拝命。
9月:イギリス・バース大学で開催された
14th International Conference on the Social Context of Death, Dying and Disposal(DDD) に参加し研究発表。事件・事故の犠牲者のソーシャルメディアと報道についての調査結果を報告した。死に関する研究がともかく多数集まっていて、基調講演では法医学と歴史の話でご遺体の写真バンバン出てくるし、レジストレーションの前は写真のような状況だし、エクスカーションは夕暮れ〜夜の墓地という、ひたすら死について考え続ける学会だった。また、日本は30度超えというのにバースは15度前後で、暖房がつかない学生寮ではブルブル震えながら寝る羽目に。
往路はBAのPYに乗ったのだが、びっくりするほど乗り心地がよかった。鉄道もバスも、アプリで事前に予約しかざすのみ。現金を全く使わずに移動できたが、一方でバッテリを切らしたら何もできない不安もあった。
下旬には、EIP85/DPS180で石川県・金沢へ。ここでは、SNS利用状況と死後のデータの扱いの意向について報告。
10月:いろいろなイレギュラー発生で上旬は身動きとれず。台風凄まじかった。科研Bの第1回研究会@岡山にて弁護士・吉井和明先生のご講演をいただく。下旬にはFacebook APAC Safety Summit@バンコク。台湾のiWinの方々とも再会できて、教材についてお互いにupdate。國領研の後輩岩嵜さんとディナー。日経新聞の日曜版「死者のプライバシーは守れるか」で取り上げていただいた。
11月:延び延びになっていた静脈鎮静での歯科治療。昨年の神経直接麻酔注射がよほど恐怖だったのか、伝達麻酔しても痛みを感じるほどで治療にならず、鶴見大学病院に紹介状書いてもらった。記憶もふっとんですっきり。クロサカさんとの対談の機会をいただく。ここでスッと自分のやっていたことがまとまった。
12月:信用スコアに関して取材に応じた記事がダイヤモンド・オンラインに掲載。科研B第2回研究会では、千葉工業大学・藤田茂先生のご講演をいただく。25日夜は、初めてのラジオ生出演(Nらじ)。
本年は大変お世話になりました。
*1:出張前日にぎっくり腰になり、やっと歩きながら出かけていった。チャイナタウンで足のマッサージを受けたら、劇的回復でその後はスタスタ。